那賀川野菊、そして北條民雄

11月5日、7時に家を出て高の瀬峡へ紅葉をみに行った。
途中、1時間足らず走った場所に知っている橋があった。帰りに寄ろうと思った。近くに、「那賀川野菊」の生息場所があることを、私は知っていた。
高の瀬峡の紅葉は美しかったが、先月末に見た剣山裏には及ばないと思った。理由を考えたが、常緑樹の割合ではないかと思った。こちらは杉が多い。杉は紅葉しない。同時に道路脇の杉が、景観をさえぎる。剣山裏国道439号線の京柱峠(高知との県境)へ向かう途中が、私の知る最高の「紅葉狩り」場所である。

帰り、那賀川中流のその橋を渡った。
そして、何度も来たことがあるその場所へ行った。私一人だった(と思ったが、しばらくして岩陰の川岸から、夫婦と思える二人連れがあらわれた)。私はカメラしか持っていなかったし、男性もそうだった。那賀川野菊が元気に咲いている姿を見て、私は幸福に撮影した。つい数ヶ月前、夏に来たときは、干天の岩場で枯れたようになっていて、このまま絶滅するのではないかと思った。この固有種の生息場所は、過酷な環境である。

私は撮った那賀川野菊の写真を、娘と姪と、SEさんの3人に送った。娘と姪へは、自分の行動報告を兼ねていた。しかしこのとき何故、ふとSEさんへ送る気になったのか。
(以下のSEさんのメールを本ページに載せることについて、SEさんのご了解を頂いております)

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2020/11/05 15:03、y.nomuraのメール:
[那賀川野菊]
SE様
那賀川中流のこの付近にのみ原生する、固有種です。場所は、ヒミツ。



2020/11/05 16:02、SEのメール:
まあ、なんと可憐な野菊でしょう!
石の隙間の土に楚々と美しく一生懸命に咲いて、心を打たれます。
まるで私みたい…とか何とかふざけたことを書こうとして、ふとすごいことを思い出しました。

よしさんはノンフィクション作家の高山文彦さんの『火花』を読まれたことはありますか?
ハンセン病を病みながら文学の道を志し、川端康成に見出されて、傑作『いのちの初夜』を残して夭折した作家、北條民雄の生涯を追った長編で、私は心震える感動を覚えた本なのですが、その民雄の生家が那賀川の近くと記述があったんです。那賀川野菊で思い出しました!
そして、今あらためて確認したら、阿南市になっている場所でした。お墓もそちらにあるようです。

民雄は東京の多摩全生園に入所し、文学サークルを作って活動するのですが、その仲間であり親友だった東條耿一さんは、私が密かに『マイ聖人』と思い定める人です。(東條さんの方は、10代の時に神山復生病院でレゼー神父様から洗礼を受けている人で、彼の作品を集めた『いのちの歌』という本があります。)

北條民雄の『いのちの初夜』、高山文彦の『火花』、東條耿一の『いのちの歌』は、私の本箱の中でも特に輝く3冊なのです。
=SE=


2020/11/05 19:37、Y.Nomuraのメール:
SE様
4時に家に戻り、シャワーし缶ビール飲んで、撮影した写真をふり返っているところです。今日は、なんか、SEさんと話をしたいです。
北條民雄の名は知っていましたが、それ以上の何も知りませんでした。まして那賀川、阿南市ゆかりとは! 大至急、調べてみますね!

「那賀川野菊」を知ったのは、10年になりますか。もっと前かも知れません。
時の経過の感覚は自分の年齢が分母になると、最近切実にその通りと思います。10歳の1年は、60歳は2カ月にしか感じない。亡妻と1度は確実、おそらく1度以上、この場へ来ています。その妻が亡くなってはや5年目に入っています。
新聞記事で「那賀川野菊」をみました。記事には当然、場所を特定できるものはありません。私は少ないヒントから、(確か「那賀川中流」「○○中学生が保護に協力している」の2点だったと思います。○○中学の○○は現在完全に忘れています)、那賀川中流・○○中学校を探しました。その中学校の周辺で、聞き込みしました。親切な?老人のおしゃべりが、場所を教えました。周辺に何カ所かあるそうですが、私は1カ所で十分でした。それが、お送りした写真の場所です。
大部分が大きな岩の上、割れ目に生えています。過酷な環境です。「原生」といっても、繁茂できる場所でありません。今年の夏に点検に来て、暑さと乾燥に、もう絶滅するんじゃないかと思いました。それが3月後のいま、こんなに元気に、笑顔をみせてくれるのです。

わが家に、横浜から持ってきた、鉢植えの「那賀川野菊」があります。これは「山野草」専門園芸店で買ったものです。非常に丈夫で、随分増えています。さきほどわが家のものと写真で比べましたが、葉の形が同じなので(葉の形を見なさいとは妻に教えられました)間違いないと思います。ただ、花の勢い、力が、違います(わが家のは弱い)。わが家はこれから「地植え」しますが、どうなるでしょうか。

『徳島へもんた!』(もんた=戻った)というサイトを計画しています。
徳島のことを(イメージとしては東京・横浜の旧友に)自慢するサイトです。
北條民雄のこと、教えて下さって、ありがとうございました。


2020/11/05 21:53、SEのメール:
北條民雄の郷里については、『火花』の一章、「まぼろしの故郷」に書かれています。この病気になると、名前も故郷も家族も捨てなければならなかった時代だけれど、民雄にはこっそり故郷に帰った数日間もありました。

よしさん、是非読んでみて下さい。
これは高山氏渾身の力作で、私は魂が震えてたまらず、その後多摩全生園に何度も足を運ぶようになりました。敷地の中の教会や納骨堂で何時間も過ごしたり、資料館の資料を丁寧に読んだりしていました。望郷の丘に登った時は、当時のハンセン病の方々の思いが憑依したようになって、涙を止めることができなかったです。

それで親友のキリスト者 東條耿一さんを知り、彼が洗礼を受けた神山復生病院を知り、目の見えない方の苦しみを知り…私の世界は格段に広がりました。そして私を受洗へと導いて下さった木村神父様が神山復生病院に入所され、私は何度もそこにお見舞いに通うことになるのです。
考えたら一連のこの流れは、民雄の故郷、阿南市から始まっていているのですよね。そこに今よしさんがお帰りになられている。不思議です。
人生の出来事はアトランダムに起きているようでも、実は全てが一本の糸で結ばれているのだなと思います。


2020/11/06 8:26、Y.Nomuraのメール:
SE様
Wikipediaによりますと、北條民雄は「徳島県阿南市下大野町に育つ」とあります。私の家から車で15〜20分の場所です。地図の直線距離で5kmくらいですから、実走でも10kmをこえることはないと思います。那賀川野菊の生息地は、そこから更に20kmほど上流になります。
「いのちの初夜」と「火花」は古本で手配しましたが、Kindle版でも入手しました。東條耿一『いのちの歌』は新教出版に入手方法を問い合わせました。
ハンセン病といえば、舟越保武「ダミアン神父像」を思います。西武線のどこかで舟越保武・展覧会があったのですが、おそろしい迫力でした。
私は、遠藤周作の最高傑作は、『私が・棄てた・女』と思います。私が読んで泣いた本は、この本と、山本周五郎の『柳橋物語』です。
=よし=


2020/11/06 10:00、SEのメール:
おはようございます。
那賀川野菊が私の記憶を掘り起こしてくれて、またまたご縁を深めてくれました。そんなに近いところだったなんて…!驚きです。
最初に火花が出版された時は、まだ民雄の本名も生家の場所も公表されていませんでしたが、後に発表され、2014年には高山文彦氏が阿南市にいらして、講演会も開かれたようですね。
私も昨日初めて色々知りました。
http://www.city.anan.tokushima.jp/docs/2014082600018/file_contents/ANAN67410-13.pdf
Wikipediaに出ている民雄の肖像画を描いたのが、親友である東條耿一さん(栃木県鹿沼市出身)です。
舟越保武さんは岩手の二戸市の方だから、盛岡の県立美術館がたくさん作品を所蔵していて、私はそこで『ダミアン神父』を見ました。
数多くの作品の中でも、舟越さんはこれを特に大事にしていて、生涯アトリエに置いていらしたと聞いています。
『私が・棄てた・女』は、私も深く感銘を受けました。神山復生病院の井深八重さんをモデルにしているのですよね。病院近くの墓地を訪ね、一人でお参りしたこともありました。
『柳橋物語』は知りませんでした。読んでみます!


2020/11/07 19:01、Y.Nomuraのメール:
SE様
『いのちの初夜』、読み終えました。
題名から受ける抒情は、微塵もありませんね。苛烈な文章です。私の文章の甘さは、私の人生の甘さだと気づきました。
ちょっと、直ちには感想の書きようがありません。二十歳そこそこの人がこれだけ強い文章を書いたのは、それだけの強い心を持っていたからでしょう。『いのちの初夜』という題名の意味も、分かりました。

昨日、阿南市役所へ行って、教えて下さった『阿南市の先覚者たち 第1集』を入手しました。小冊子に11人が紹介されているもので、北條民雄の部分も、インターネットで知る以上のものはありませんでした。(第2集は品切れでした)
これから『火花』を読み始めます。数日かかるでしょうが、感想を書かせて頂きます。
那賀川野菊から北條民雄を教えて下さって、ありがとうございます。
本当に何かに導かれている気がしますね。
近々、下大野へも行ってみます。(子供時代、「大野村」は行った記憶はあります。上中下はなかったと思います。那賀川沿いの土堤道を歩いたはずです。2里や3里、歩くのは普通でした)

徳島県は、(というものの他府県との比較はまったくしていないしできないのですが)、川の多いところです。
「徳島県には,吉野川,那賀川の2つの一級水系368河川と,勝浦川をはじめとする36の二級水系129河川を合わせて41水系497河川があります。(県HP)」
とあります。ちょっと走れば4つや5つの川を渡ります。

那賀川は徳島第2の川で、私はその河口近くで育ちました。河口(最下流)といえど川底の石が見えるきれいな川で、夏は一日中水遊びしていました。汽水域の岩牡蠣がいっぱいあって、石で割ってそのまま食べました。勝手に生えているので所有者はいなく、怒る人などいませんでした。それにしても食中毒しなかったのが不思議です。「オゴ」などという藻もあって、ちょっと取ってきて、酢醤油で、おかずの足しにしました。
北條さんの「大野」は完全な淡水域で、私の食べたものはなかったでしょうが、川魚、フナやコイ、モクズガニは、豊富にいたと思います。那賀川で、私に似た、少年時代を過ごしたでしょう。
=よし=


2020/11/07 22:38、SEのメール:
早速読んで下さったのですね! 分かち合ってくださり嬉しいです。
なんか色んなことが、また急に繋がり出した感じがしました。

『いのちの初夜』は、読んでいるこちらも刺されて血が出るような激烈さです。痛い、痛いよと思いながら読んだ記憶があります。
ただ私は、最初に『火花』を読んで、それからいのちの初夜、いのちの歌、という順番だったので、北條民雄さんの人生の流れの中での作品、という風な感じで捉えてもいました。
よしさんの『火花』の感想、楽しみです。
私はそもそも、本の一番最後の柳田邦夫さんの解説にある、藤野高明さんのエピソードを何かで知り、火花といのちの初夜を読んでみたくなったのが始まりでした。そして最後に、北條亡き後、深く信仰に帰って行った東條耿一さんにたどり着いたのです。
いやーほんとに、那賀川野菊よありがとうです。徳島の地理も知らず土地勘も無い私は、『那賀川』という字面であっ、となりました。
よしさん、ありがとうございます。

岩牡蠣! 何という贅沢でしょうか。
北條さんにも、きっと豊かな楽しき少年時代がありましたよね。
そう思ったら、今更ながらほっとしたりして。

(野村註:私の子供時代に那賀川河口で食べたものが、「岩牡蠣」と呼べるものか不明である。川の石ころにくっついていた。殻が痛くて、裸足で歩くことはできなかった。ごく小ぶりの牡蠣だった。冬に川へ入ることはないから、夏だったに違いない。干潮時には簡単に殻を割って、そのまま食べた。おいしい牡蠣だった。いずれにせよ夏に食べることの出来た牡蠣である。いまはもうまったくない。私が育った場所は、「富岡港」として整備されてしまった)



2020/11/10 15:08、Y.Nomuraのメール:
[北條民雄が見たかもしれない景色 1]
野村@下大野




2020/11/10 15:11、Y.Nomuraのメール:
[北條民雄が見たかもしれない景色 2]
野村@下大野




2020/11/10 15:13、Y.Nomuraのメール:
[拙宅から]
13分です。



2020/11/10 16:51、SEのメール:
うー(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
私は泣いてます。
なんと静かで美しく、長閑な風景でしょう。
しかもお家から13分だなんて、驚きしかありません。
壮絶な生涯だった民雄さんだけど、この綺麗な那賀川の近くで、お爺ちゃんお婆ちゃんに可愛がられ、野球のうまいガキ大将の少年時代を過ごし、早熟な思春期時代、新婚時代を送っていたのだなぁと、ちょっと救われるような気持ちになります。
彼の強靭さは、ここでの土台があってこそでもあるのですよね。
最後の帰郷の時、夏みかんの木からみかんをもいで食べて、心身再生する場面も思い出しました。


2020/11/10 20:14、Y.Nomuraのメール:
SE様
今日は午後一番に「店」の用があってそれを終え、2時少しすぎに家を出ました。そうする予定でした。
「下大野」は「通行路」として何度も通っているので、分かっていました。が、今日は「調査」の意味もあるので、ナビを使いました。場所を特定できませんので、[下大野]以下は適当に設定しました。そうしたらナビに案内された場所が、「八幡神社」でした。小さいお社ですが、丁寧に清掃され、氏子たちの心の窺える清らかな場所でした。北條民雄も必ず、この神社を参拝していると思いました。
「石玉垣」を一周して調べました(樹に遮られて点検不可能な場所もありました)。それでも多くの、「七條」姓の刻印された、石玉垣がありました。(お名はいろいろありました)(野村註:北條民雄の本名は、七條晃司)
この場所から那賀川水辺まで、歩けばおそらく15分でしょうが、当時の子供にとって(私もそうでした)自分の庭の感覚でしょう。もっと上流へも、もっと下流(那賀川河口)へも、行ったに違いありません。ひょっとすれば[那賀川野菊]を見ているかもしれません。河口まで8.6Kmとの標識がありました。普通の行動圏内です。従って北條民雄の育った家を「点」として特定できませんが(そして私はそのことにあまり興味はありませんが)、普通の行動範囲として、お送りした画像の風景を北條民雄は見たと思います。

那賀川沿いでなく、北條民雄が実家から見たかもしれない景色を、添付します。
田んぼがあって、川があって、山がある、そういう場所です。



『火花』は、まだ1/4くらいしか読めていませんが、この段階で胸にずんときたのは、[川端康成]という人の「剛毅さ」です。
北條民雄の生原稿、生手紙を読み、交信しました。
民雄の死を知ると、直ちに「全生病院(癩病院)」を訪れています。
(コロナ感染者が集団で収容されている場所へ、亡くなったその日、弔問に訪れた、と同じです。志村けんの死には、実兄の知之氏ですら遺体に面会が許されず、隔離のまま直ちに火葬場へ送られ、遺族は遺骨を拾うことも許されませんでした)

これは凄い人だったですね。いまのコロナから考えても、普通の心(精神、気合い)では、あり得ないと思います。川端先生にとって、北條民雄とその文章は、それだけの価値があったのだと思います。そして、価値あるものへは「自分を掛ける」、川端康成はそういう人だったのだと思います。
川端先生の作品は、「伊豆の踊子」「雪国」くらいしか読んでいませんが、私は川端をまったく知らなかったのでしょう。「伊豆の踊子」「雪国」ですら、私が読んだ(20前後)とは、まったく違う内容かもしれません。再読します。
=よし=


2020/11/10 22:57、SEのメール:
この美しい一本道を歩いてみたいです。
色んな調査、本当にありがとうございました。
八幡神社、石玉垣…感慨深く、北條民雄の世界がグッと近くなりました。

川端康成との交流は、民雄にとってどんなに明るい一条の光だったことでしょうか。私も火花を読むまで、川端康成という作家は、どちらかというとナヨナヨしていて、繊細なインテリ…という勝手なイメージを持っていましたが、全然違っていて驚きました。(志賀直哉は豪胆なイメージでしたが、それも違いました)
ご自分も辛い生い立ちだったからなのか、腹が据わり、苦境にある人に寄り添おうとする優しい人物だったのだなと思ったのでした。

それからもうひとつ不思議なことに、
那賀川野菊のあの日、私はお友達のために鎌倉の荏柄天神社に御朱印をいただきに行っていまして(よしさんにも写真をお送りしましたね)、帰りに二階堂の道を歩きながら、そういえばこのへんに川端康成が住んでいたのよね〜…と何とはなしに考えていたのでした。野菊の写真をいただくほんの少し前でした。
=SE=


2020年11月17日 11:10:01 Y.Nomuraのメール
SE様
昨晩、高山文彦氏の『火花』を読み終えました。
良い本を教えて下さって、ありがとうございました。私は最初に北條民雄の『いのちの初夜』を読み、次に『火花』を読みました。『いのちの初夜』では、その食いついてくるような文章に驚愕しました。このような、ひと言ひと言が硬質の文章を、久しく読んでいませんでした。老人が「文学に目覚めた」という感じです。折角北條民雄生誕地の近くにいるのですから、調べるということでなく、北條の残りの文章も読み、黙想したいと思います。幸い「北條民雄全集・上下巻」(創元社 昭和13年4月25日発行、5月10日第9版発行)を入手できました。発行わずか15日で、第9版に達しているのですね。川端康成氏の検印があります。1冊ずつ捺したに違いないですから、川端先生もこの本に触れたのだと思います。

『火花』は、執筆者の伝えたいことが、これも矢のように私を射ました。
題名「火花」の由来は、北條民雄が光岡良二に贈った、
「人生は暗い。だが、たたかう火花が、一瞬暗闇を照らすこともあるのだ」(p.283)にあるのだと思います。
その北條の放った「一瞬の火花」に高山文彦は射られた。それを人びとに伝えたかった。その思いの強さが、この本の説得力になっているのでしょう。

多くの人を知りました。入手できるものはして、読んでみようと思います。次は東條耿一『いのちの歌』を精読します。この人が北條の肖像画を描いたのだとすれば、並々ならぬ画才ですね。
川端康成の『寒風』を読みました。『雪国』の古本を手配しました。(旧仮名遣いで読みたい)
私はおそらく川端康成をまったく知らないのだと思います。青春時代のある冬、私は旅行しました。

清水トンネルをくぐって、越後湯沢に泊まりました。夜行だったのでしょう、「トンネルを抜けた」とき、暗闇に浮かび上がった平原のような雪と、民家の屋根をふんわり覆ったその白さを、今も忘れません。徳島育ちの私がみた、初めての本格的な「雪」でした。感じたのは、きれい!です。その旅は瓢湖で白鳥を見、新潟の海岸まで行きました。ずっと後で知ったことですが、その海岸はほんの少しあと、横田めぐみさんが拉致された場所です。カトリック新潟司教館の散歩範囲です。海岸と教会の途中に、横田家の住んでいた日銀の社宅があったのでした。めぐみさんもカトリック教会を訪れたかもしれません。
川端さんには「瓢湖」について書いた文章もありました。明らかに川端さん影響のコースですが、私が読んだ川端さんは、上っ面だけだったのだろうと思います。

北條と東條耿一、光岡良二、於泉信夫との邂逅は、それ自体、神の配慮かもしれません。
川端康成、創元社の小林茂氏の「心のつよさ」も、高山文彦氏が伝えたかったことでしょう。

おかげさまで私の関心の範囲が広がりました。良い本をありがとうございました。
=よし=


2020年11月17日 20:29:36 SEのメール:
ありがとうございます。感激です。
私の心の中で燦然と輝く3冊を、こんなに深く味わってくださり、本当に嬉しい限りです。
私はこの3冊を読む前と後では、ちょっと人生が変わったような気がするほど、非常に影響を受けました。
私の中では『三部作』のようになっており、全編通してまさに『生命肯定の大いなる讃歌』と位置づけられているのです。壮絶さを超える輝きと美しさがあって、心底励まされるのです。(東條さんの「ロザリオの死」で完結しているからかもしれません。)

まだ義父と子供達の世話に忙しかった時期に、下手っぴな運転で、よくぞ何回も多摩全生園まで通ったものだと今は不思議になるくらい、私はあの場所に呼ばれていました。
高山さんが「書け、書け」と呼びかけられていたように、また、何故かよしさんが那賀川野菊の写真を送って下さり、私がその時二階堂にいたように、シンクロニシティ…というよりもっと神秘的な何かがきっとあるのだろうと思います。(野村註:鎌倉市二階堂は昭和12年から21年まで川端康成氏が住んでおられた場所)

全生園内のカトリック教会聖堂の後方、壁の高いところに、包帯を巻いたり杖をついたりしている人達の真ん中にイエス様が立って、手を広げておられる絵が掛けてあったのが忘れられません。
長生きなさった語り部の渡辺立子さんは、晩年までお兄様の詩の朗読会をお聖堂でなさっていたと知り、あともう少し早く知っていたら私も参加したかったと強く思いました。

後日、岡山の愛生園で働いておられた神谷美恵子さんの書かれた、「あなたは代わってくださったのだ」という言葉を読んだ時は、まさに火花に出てくる方々は私の身代わりだと思ったのでした。

それにしても、越後湯沢の思い出は、しっとりして素敵ですね。
私は湯沢といえば苗場スキー場でキャッキャしていた世代で、川端康成の世界からは程遠い感じですが、今一度ちゃんと読んでみたいです。

川端康成は突然自死されたわけですけれど、もしも北條が生きていて、その支援を続けていたら、それはしなかったのではと考えたり…。
そういえば、鎌倉の覚園寺に『鞘大仏』という優しいお顔の大仏様がいらっしゃり、川端はその大仏様がお好きで、よくその前に座って瞑想しておられたと聞きました。
お墓のある鎌倉霊園までは車で15分なので、今度お墓参りしようかなと思います。
(私はお墓参りが大好きな墓マイラーなんです笑。山本周五郎のお墓も鎌倉霊園にあるそうですよ。柳橋物語、これから読みます。)

誰かの人生をこんなに知ることができる『本』ていいですよね。本が好きだし、本好きな人も好きです。心に深い海を持っているような気がして。
昔は男の子の部屋に遊びに行くと、さりげなく本箱に並んでいる本をチラ見し、「○」とか「✖️」とか密かに判定していた不遜な過去を思い出しました(^_^;)
=SE=
 
《参考資料》
・北條民雄 『いのちの初夜』(勉誠出版) 『北條民雄全集(上下巻)』(創元社)
・高山文彦 『火花 北条民雄の生涯』(七つ森書館)
・東條耿一 『いのちの歌』(新教出版社)
・光岡良二 『北條民雄―いのちの火影』(沖積舎)
・川端康成 『全集第九巻(寒風)』(新潮社)

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