2021.11.15 |
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私は6人兄弟で男3人女3人である。すぐ上の姉は、私が生まれる前に亡くなった。長兄は私が幼児のときに徴兵され、2歳のときに戦死した。次兄は生還した。私は末っ子で、すぐ上の姉がちょうどひと回り、12歳上だった。まあ私は兄姉たちとは別世代で、時はずれの、余分に生まれた子供である。しかしみんなに可愛がられ、典型的な「末っ子」として育った。 次兄が2015年11月に亡くなった。90歳だった。金銭的には豊かでなかったが、質のいい、幸せな人生だったと、私は思っている。私が思う兄の「質のいい人生」は、兄の性格がもたらしたものである。(追記2021.11.23) 次姉が去年亡くなった。90歳だった。94になる長姉と私の二人が残った。 次兄の七回忌法要が昨日14日に行われた。 姉の意向で次兄七回忌のあと、長兄が、玉砕の地グアムへ向かって出航した高松港を、訪ねようということになっていた。 ところが姉は体調を崩し、行けなくなった。 私は義姉、姪たちと、予定通り高松港、そして兵舎のあった善通寺へ行った。 兄博美は招集され、帝国陸軍第11師団に属した。徴兵区は時期により出入りがあるが、おおよそ四国四県(香川県・徳島県・愛媛県・高知県)である。1944年(昭和19年)2月、歩兵第12連隊と第43連隊、山砲兵第11連隊の各第3大隊が、第1師団の一部と共に第6派遣隊として抽出され、グアム島に送られた。この第6派遣隊は同年6月に独立混成第10連隊(通称号:備17584部隊)に改編され、グアムの戦いで玉砕した。 かつて基地が存在した香川県・旧善通寺町(現:善通寺市)の土地は、現在の陸上自衛隊善通寺駐屯地や四国学院大学のキャンパスとして使用されている。(wikipediaによる) 「第六派遣隊 二隻 グアム島行き(3月20日上陸)」とある。heiwakinen.go.jp これらの資料が正しいとすれば、兄は昭和19年2月グアム島行きに「抽出」され、2月後半か3月早々、グアムへ向かったと思われる。そしてその部隊が全滅(玉砕)したのが8月10日である。 見送った姉の記憶は「高松駅のすぐ近くの港」ということだ。ならば「高松港」以外にはありえない。 「旧高松港管理事務所」という建物があった。 港の中心施設であるし、兄が岸壁のどの位置から出航したにせよ、管理事務所を見、あるいは入室したに違いないと思った。現在使われていないとは知っていたが、跡形は残っていると思った。在ったという「玉藻町10-10」を探した。それらしきものを見つけることができなかった。 フェリー切符売場の女性に訊ねたが、首をかしげるだけだった。何人目か、「旧」管理事務所は知らないけれど、現在の事務所はここです、とメモで教えてくださった。そこを訪ねた。 そこでも、最初に出てきた若い人は知らなかった。その上司らしい人につながったが、その人も知らなかった。すると奥の方から「古い」人が出てきて、「その建物は20年前までは現役で使われてた。その後空室で10年間放置され、10年前に解体・撤去された。今はありません」と教えて下さった。 いずれにせよ、ここから、昭和19年の2月下旬あるいは3月早々、兄博美は出航したのだ。 姉が兄を見送ったのは真冬の岸辺だ、寒かったに違いない。兄は、熱帯へ、死へ、向かった。 桟橋から、対岸に屋島が見える。兄は、そして同僚兵士たちは、この山を、今生の思いを込め見つめたに違いない。 もう一度、見たかっただろうに。 16日、善通寺へ向かった。 道路の左右、そして後方に広がるのが、かつての「駐屯地」である。特に右のレンガ造り建物は、昔のままのように思う。 兄博美は、この一帯のどこかで暮らした。正面が「善通寺・五重塔」、兄は兵舎から、この塔をみていただろう。 この山も、兄がよく見ていた気がする。そんな感じの山だ。五岳山の一つと思うが、不確かである。 (陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館の前庭より撮影) [讃岐宮・香川県 護国神社] 駐屯地から徒歩10~15分の場所にある。兄はまちがいなくここを参拝しただろう。 拙、旧ページ [兄 野村博美] [追記 2021.11.23] 次兄 野村昇のこと このページは長兄博美のことを書いたが、次兄曻の七回忌がきっかけだった。 長兄の記憶はまったくないが、次兄は勿論よく知っている。 ただ私とは17歳ちがった。私が子供の頃兄は外へ働きに出ていたし、兄が家業をついで家にいるようになっても、私は学校、そして東京へ出た。 若い時の17の年齢差は、共通の話題を持ちにくかった。更に兄が、人に教訓めいたことをいう性格でなかった。 とくに軍隊時代のことは語らなかった。いつか一度だけ、「いじめられた」とポツリともらしたことがある。いつもと違う暗い声だった。それくらいだ。 ただこれだけは兄も幸運だったと言っていたが、1度も戦闘をしたことのない部隊だった。「わしは弾を撃ったことがない」と言っていた。 兄が人に向かって弾を撃てると考えることができない。これは最大の幸運だっただろう。そういう部隊もあったのだ。 「質のいい、幸せな人生だった」と、私は次兄のことを書いた。 私はそう思っているが、何をもって「質がいい」と私が思うのだろうか。人生の質。 兄は決して金銭的に裕福ではなかった。体は2つの大きな苦しみを持っていた。1つは痛風の発作であり、もう1つは痔疾だった。特に痛風は、痛風との特定に私の記憶では20年近くかかり、その間、定期的に襲う発作に強烈に苦しんだ。 なぜ「痛風」とわからなかったのか。 当時痛風は「贅沢病」と言われていた。美食している人間がかかる病気だと。 兄は美食贅沢からかけ離れていた。 1. 脂っこいものを好まなかった 2. 酒は一切飲まなかった 3. 痩せ型だった 更に当時、 4. 徳島県に痛風患者(と認定された人)が少なかった。つまり「痛風を知る医者」が、少なかった 今では「痛風」も増え(一般的な病名となり)、原因の大きな要素である「尿酸値」は、常時チェックされている。だが、戦後間もない徳島の田舎町には、痛風を知る医者がいなかったのである。 後年、私が40のとき、私の足を激烈な痛みが襲った。足の甲に釘を打ち込まれる痛さだった。「あっこれは兄貴の痛風だ」と直感した。医者にそれを告げると医者は直ちに理解し、処方してくれた。発作は2,3日で収まった。 痛風発作のときに兄は、 「痛いということは生きている証拠だ。痛いことは、ありがたいことだ」 という意味の文章を残している。私は「強がりだ」と思っていた。 しかし、この歳になり兄の七回忌を迎えて、兄の心の位置の高さ(「質」の高さ)が分かる。 「生きていること(痛みを感じることのできること)」が、兄にとっては、ありがたい、感謝だった。それは持って生まれた兄の性格もあるだろう。しかし「生きているだけでありがたい」時代を通ったのだ。長兄は生きることができなかった。 私とは「ありがたい」を感じる、ゼロ点が違うのである。そして、ありがたいを感じるゼロ点の低いほど、その心は高いのだ。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(1 テサロニケ5:16) 兄がこの言葉を知っていたと思わないが、そういう人だった。 |
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